No1.「規制緩和」に思う
98. 1.25 藤島公平
最近、どこでもかしこでも規制緩和がさけばれている。規制緩和によって経済の活性化をはかるとか、経済のグローバル化に対応するには必要なことだとかの理由である。
しかし本当に、現在進行している規制緩和の動きは経済の活性化引いては国民の生活の向上につながるのだろうか、と疑問をもつ。
規制といっても様々あるわけで、道路交通法も規制である。勝手に車が車線を無視して走ったのでは、事故が絶ないわけで、当然に必要な規制である。そのためにいくら急ぐ用事があっても、赤信号では停車しなければならないという「苦痛」を感じることがあっても、それが市民生活を円滑に進めて行くためのルールである以上、また社会生活を認めて社会の一員として存在する以上、守ってもらわなければならない。
では、今いわれている規制緩和はどうだろうか。代表的な規制緩和は大型店舗法の撤廃であり、金融ビッグバーンである。
大型店舗法はそもそもなぜつくられたのか。たしかに、既存商店街をはじめ中小商店主たちの、既存の商圏を独占しておきたいというエゴも働いているとは思う。しかしが同時に、資本力にものをいわせた大型店の出店を野放しにすると、地域の商店街をはじめ、町並みも含めた街文化が破壊されてきたという事実もある。そのためもあって商工団体などの運動でつくられた規制だったと記憶している。
よく、現在の競争社会において、営業努力が足りないから廃業に追い込まれるのだとか、大型店の利便性を消費者が歓迎しているではないか、という論調も聞く。しかし大型店相互の競争で負けた大型店が、簡単に撤退し、後には廃虚しか残らないという現象もあちこちで目にする。地元の商店は廃業以外の理由ではあまり「撤退」しない。なぜなら一般商店は撤退しても行く場所がなく、商店主も消費者と同じ文化を共有し合った住民であるから簡単にその場所を離れられないのである。
それに大型店の利便性といっても、採算性の範囲内のものであって、採算が合わなければ、地域との文化的共有性のない大型店は、あっと言う間に「利便性」を投げ捨てて、他の場所へ移ってしまうのも規制緩和ならではの産物である。
金融ビックバーンについても、金融機関相互の競争を高めて、預金者や資産保持者へのサービスに、より努めるような環境が整備されるのだ説明する。しかし、圧倒的多数の市民は、一定程度の金利が保障されて、資産管理が安全であることを主に望んでいるように思う。そして営業資金や住宅資金などを安定して借りられるような環境を望んでいるわけである。
一方で、金融ビックバーンのこの際、資産運用で大儲けをしてやろうなんて考えているのは僅かな部分だろう。しかも、よりバクチ的な色彩の強くなる金融市場に、素人資産家が誘いこまれて、裸にむしられる姿が目に浮かぶのは、私だけだろうか。
いずれにしても、今盛んに言われている各種の「規制緩和」を考えると、そこには「大企業が栄えて、民、みな枯れる」「砂漠のなかの華麗なピラミット」の将来像しか見えてこない。
確かに無駄な規制も有る。行政の各種の許認可の中には大して意味もなく、役人や役人の退職者達でつくる外郭団体の仕事づくりのためとしか思えないものもある。こういう規制は大いに無くしてほしい。
しかし今進行している「規制緩和」は、規制の中味を吟味して無駄な規制をなくすという方向よりも、もともと過去の反省からつくられてきた資本主義のルールとしての規制を破壊して、無秩序に競争する状態に近づこうとする方向がむしろ強い。いわば無政府主義的資本主義に行き着くように思う。そこではわずかな強者のみが勝ち残り、残りの多くは「こんなはずではなかった」と悔やみながら没落していくのだろ。
しかも私の感じる限り、今進行中の規制緩和の要望は国内から起こっているというよりも、むしろ外圧によるもののように思えてならない。現代は軍事的侵略は受けなくとも、経済的侵略で国の主権を失いかねない時代に入っているといっても過言ではない。日本にはすでに国内に外国の軍事基地があるのだから、経済的侵略を受ければ、たちまち全面占領と同じようなものである。日本政府はその「基地」に「おもいやり予算」とやらで大金をつぎ込んでやっている。これはお人好しというべきか、それとも国を売る愚者のなせるものか。
私は21世紀の日本の将来に関わる重大問題として規制緩和問題を考えるべきと思う。
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