No7. 「日の丸」「君が代」論議に思う
      
                        99. 3.26  藤島公平

 昨今「日の丸」、「君が代」問題がにわかに脚光をあびてきた。「日の丸」「君が代」を国旗・国歌として法制化すべきだとか、すべきでないとか、別のものを法制化すべきとかの意見が錯綜している。
 私は「日の丸」と「君が代」は分けて議論すべきだと思いっている。

 「日の丸」については、確かに反対論者が云うように、一時期「大東亜戦争」の侵略の旗印となったことは確かである。しかしドイツのカギ十字のように、ヒットラーのナチスが政権を奪ったあとに、彼らによって国旗とされ、そしてヨーロッパ諸国や旧東欧・ソ連への侵略戦争の旗印となった経緯とは違っている。
 日本の場合は、「日の丸」は歴史的にみると、朱印船時代から使われていた経緯がある。国旗という認識はなかったにしろ、日本列島に住む住民を表す旗印として、他国に表示するための旗印であったと思われる。その意味では認識は別にして国旗というべきであろう。
 その旗印が、日清・日露戦争や大東亜戦争だけでなく豊臣時代の朝鮮出兵時にも使われたと聞いているが、たまたま戦争の旗印としても使われたという事実から、日本民族の旗印としてきた「日の丸」を全面否定するのは如何かと思う。なぜなら侵略のために作られた訳でも、又侵略勢力によって作られた訳でもないという点では、ドイツの場合とは明らかに違っている。

 問題は日本がアジア諸国民の生命財産を破壊し、奪い、踏みにじってきた、あの侵略戦争の反省と謝罪をはっきりとしないことにこそ根本問題があるのであって、「日の丸」という旗印に罪はないと思う。
 だから日の丸問題については、侵略戦争、特に大東亜戦争の反省と謝罪によって、日の丸を日本民族の誇りうる旗として、国際的にも国民的にも再認知する手続きが必要だと思う。そのような視点で論議すれば、多くの国民も納得できるのではないかと思う。よく政治家が「みそぎ」という言葉を使うが、日の丸も侵略戦争の真の反省と謝罪によってこそ、本当のみそぎとなって、全国民が誇りを持って大切にする旗となる。
 ところが、日本政府は未だに歯に絹を着せたような「ゴニョゴニョ」と、反省とも何とも分からないようなことでお茶を濁し、他人事のようなことを言っているようではみそぎになっていない。このことは国旗、国歌問題だけでなく、経済問題などでも日本がアジアに本当に信頼される国になるかどうかの試金石にもなっている大事な問題である。

 ただし、大東亜戦争を侵略戦争と思わない勢力にとっては又意見が異なるであろう。「ABC包囲網のなかでしかたなく日本の生命線確保のための正義の戦争だった」とか、「アメリカだって原爆を落としたじゃないか、どっちもどっちだ」というかもしれない。
 しかし何の罪もなく、ましてや日本に対して侵略的意図が全くなかったアジア諸国民を苦しめたという事実は、何と理由をつけてもアジアに対しては侵略としか表現のしようがない。
 日本がアメリカの原爆投下に対して本当に謝罪を求めるならば、日本もアジアへの侵略に対して真摯に謝罪してこそ初めて、国としてアメリカに対して謝罪を求められるのである。一部の被爆者運動にこの点が欠落しているところがある。

 次に「君が代」であるが、この歌は内容的にも歴史的にも天皇制崇拝の歌として作られたのは誰の目にも明らかである。日本が戦後、象徴としての天皇制は認めているが、主権は国民にあると宣言している以上、「君」である天皇を賛美する歌は、天皇崇拝者以外はあまり馴染めないと思う。従ってこれを国歌とするのは無理があると思う。また歌詞も古めかしく、現代の若者には理解しがたく、国歌に感動し、誇りをもつということは、なかなか困難である。
 国歌こそ全国民的に募集し、国民投票により全国民の3分の2以上の圧倒的多数の賛成する歌をもって国歌としたらどうかと思う。君が代もその一つとして選択肢に加えたらどうだろうか。そのような手続きを踏んだ方が国民的に受け入れ易いと思う。

 ただし、国旗、国歌が仮に前述のような経過を経て制定されたにしろ、あくまでも国民の誇りと民族的な連帯の象徴であって、これを強制することからは誇りも、連帯も醸成されない。まさに誇りうる国、連帯すべき国民があってこそ、国旗・国歌が生き生きしてくるものだと思う。
 しかし、政治家が平然とウソをつき、国民が失業で喘いでいるなか唖然とするような銀行への巨額の国家資金の投入、拝金主義を煽るマスコミ等などの環境のなかでは、誇りも連帯も醸成されない。国旗・国歌を語る前にまず自らを語るべきである。
                                    99. 3.26
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