No11.「明治維新の光と陰」を聞いて
東行庵(高杉晋作記念館)副館長・学芸員 一坂太郎氏の講演より

                       99. 7.12    藤島公平

 私は一坂太郎氏の講演を聴いて、本物の歴史を見ることの大切さを知らされました。いろんな意味で氏の講演は示唆に富んだものだと思い、勝手ながら私なりに要約して掲載させていただきました。

1.歴史とは何か
 現在の子供達に歴史を教える時に、明治時代だの江戸時代だのといってもピンとこない子が多い。そこで、「25年ごとにお父さんとお母さんから子供が生まれるとした場合、50年前には君たちのお父さん、お母さんのそれぞれのお父さんとお母さんがいたことになります。そういう風にみていくと、 100年前には君たちには何人の親類がいたことになりますか…少なくとも16人以上のあなた達の親類が生きていたことになりますね。その人たちが生きていた時代に明治維新があったのです。君たちの 100年前の親類達がどう生きていたかを知るのが歴史ですよ」と教えると子供達の目が輝いてくる。
 また萩の地元の古老にインタビューしたとき、明治43年に高杉晋作の献鐘式があり、来賓として参列した井上馨が二時間も演説したという。二時間というのは正確だったかどうかは別として、子供ながらに大変長い時間だったという記憶であったろう。これが現場に立ち会った者でしか語れない思い出話だ。これらの積み上げによって本物の歴史が解きあかされていくのではないか。

2.山口県は明治維新を伝えていないのでは
 今や伝説的な人物となっている吉田松陰や高杉晋作の伝承はもともと萩にあったものではない。中央の作家がこれらの人物を取り上げて書いてから有名になったのである。これらの作家の影響もあって明治維新後になって吉田松陰の偉人伝や高杉晋作の英雄伝となっていったのである。
 ちなみに現在萩の街並が観光地として有名だが、萩の街並みは意識して残してきたのではなく、歴史の流れのなかで取り残され、戦災にも遭わずにたまたま残ったのが現実なのである。そして高度経済成長のなかで、他では古い街並みが次々と壊されていったために、ふと気がつくと萩や津和野に日本の原風景が見える街として、結果として脚光を浴びるようになったのである。
 このように、山口の地元で維新史を研究すればするほど、維新は山口県にとって栄光だけだったのか。いやごく一握りの人たちのみが栄光を味わっただけではないのかという疑問がわいてくる。

3.伝えるべき歴史的事実とは  
 私たちはどういう事を後世に伝えなければならないのか。それは本物の歴史である。本物の歴史は劇的でロマンチックに脚色されたものではない。時には興覚めさせることにもなるが、本物は知れば知るほど感動するものである。
 地元で歴史の堀起こしのための聞き取りをしていると、あの激動の時期とされる時代に対する地元の思いは歴史小説などとはだいぶ違っていることにぶつかる。
 例えば野村康志という足軽の子の話がある。彼は吉田松陰に師事し、後に獄にいれられ、獄から出た後も民衆に迫害され乱民扱いされている。萩の民衆が当時の状況で、反体制活動を支持する土壌があるわけでなく、常識的に考えれば当時としてはその善し悪しは別にして自然だったのである。
 伊藤博文について調べようと地元の古老にインタビューしたときのことである。古老は「あいつは側属だからのう」とにべもなく答えたという。側属とは身分の低い武士のことを蔑視する言い方である。これこそ萩だから聞ける話である。伊藤博文は後に初代の首相にまでなった人物である。その人物を「あいつは側属だからのう」と言って除けるのである。地元では彼のことを面白く思っていない者もいたことを示している。ある意味では当時の武士、特に上級武士に関わる者達にとっては維新とは迷惑な事であって、しかも一部の者だけが中央に上がって、よい思いをしているのだという、半ば恨みとも、半ばやっかみともとれる気分が地元に残っているのを知る。
 高杉晋作一族をみてみよう。晋作には諌早生二という従兄弟がいた。二人とも長州藩を守ろうとした点では同じだったが、そのための手順に違いがあった。第一次長州征伐を前にして藩論が、幕府と断固戦うという派と幕府と妥協の道を探ろうとした派に二分された。高杉晋作は前者につき、諌早生二は後者についた。後に前者は「正統派」、後者は「俗論派」と呼ばれた。その両派が元治元年に現在の美祢郡美東町大田の絵堂で会戦し「正統派」が「俗論派」を破ることになる。諌早生二はその時捕らえられ、獄中にいる間に維新になった。獄から出た後に東京に出て役人になるが、退官後下関の赤間神宮の宮司となる。しかし故郷の風が冷たかったのか、宮司を辞めた後はまた東京で暮らすことになる。
 晋作の姪の話も残っている。明治維新後も嫁のもらい手がなかったそうだ。萩の人達にとって「自分たちは晋作のために没落させられた」の心境が残っていたせいだという。
 また晋作は幕府に対して行方不明者扱いされていた関係で、彼の墓は彼の偽名である谷潜蔵の墓として残っている。
 高杉家では長男がいなくなったため高杉家の家系を残すためということで、既に大西家に嫁いでいた晋作の妹のみつを離縁させて帰らせ、改めて再婚のかたちでみつに養子をもらって高杉の名を継がせたという。元の主人の大西喜一郎にとっては迷惑な話で、その後の彼の人生は悲惨だったという話まで残っている。

4.維新史に庶民史が欠落している
 山口県の維新史に欠落している点は庶民の立場に立って書いたものが残っていないことである。維新後権力についた者たちにとっては捨て去ってしまいたい史実だったからかも知れない。
 高杉晋作の奇兵隊のことが有名だが、高杉晋作に元々平等意識があったというわけではなく、彼ら下級武士にとって事を為すのに人手が足りなかったにすぎないのではないか。長州では維新の20年前に10万人の農民が参加する「天保の大一揆」が起こっている。その経験から当時の農民パワーのすごさを知っていたわけで、それを利用しない手はないと思ったのではないか。それを裏付けるのは維新後の奇兵隊への処遇である。倒幕後長州に帰ってきた長州軍は五千人いたが、二千人は常備軍に編入され、残りの三千人は家に帰された。その振り分けは身分で区分された。つまり庶民出の奇兵隊員は「ご用済み」になったわけである。放り出されたかっこうの奇兵隊員達は「俺達は維新の為に大変な貢献をしたのに、終わってみればただ利用されただけだったのか」と怒りが噴出した。そして「退職金」や戦争で負傷した者へ「補償金」を出せと脱隊騒動、いわゆる「奇兵隊の乱」を起こすことになる。その時これを徹底的に鎮圧した中心人物は、維新の立役者の一人とされる木戸孝允である。その鎮圧はすさまじく、捕まえた首謀者と思われる者は全員首を跳ねられたという。維新のために身命を賭した者達を、維新の立役者が弾圧するという割り切れない史実が語り継がれている。
 一方で、維新の激動期を象徴するような事実も聞き出されている。
 第二次長州征伐の当時、長州藩内に 160もの庶民軍隊が生まれていたそうだ。これらが奇兵隊に編入されたわけである。それも相撲取ばかりからなる「相撲取隊」とか「朝市隊」「博徒隊」などユニークな軍隊で、これをみるとこの当時には激動の波が庶民にまで押し寄せていたことが知れる。民衆のなかに、現在起こっていることは武士だけの権力争いではなく、世の中の変化の胎動として聞こえていたのかも知れない。
 古老の話で、第二次長州征伐のとき小倉の幕府軍2万に向かって、高杉晋作率いる奇兵隊2千が奇襲作戦をすべく下関に進発していたとき、たまたま通りかかった餅屋の小僧が飛び入りで隊に加わってそのまま奇襲に参加したという。もちろん武器をもっていないので石を投げて戦った。晋作がその勇気をほめて「無敵幸之進」と命名したという。その後その無敵幸之進は新潟の戊申戦争で戦死したという。
 また変わったエピソードとして、長州藩では庶民を動員するためにパンフまで作られている。その名も「長防臣民合議書」といい、木版で20ページ物で36万部も刷られた。そこには「幕府が攻めてくる。これと戦って勝ったら忠臣蔵の戦いと同じである。たとえ七たび人間に生まれ変わっても幕府軍と戦おう」といったものであったという。庶民に向かってパンフで宣伝できた背景には長州の庶民に識字能力が高かったことも一方では示している。
 当時長州藩内に1400もの寺子屋があったそうである。藩レベルでは全国で2番目に多かった。これは庶民に金銭的余裕があったことも影響している。ではなぜ長州が他藩に較べて民衆レベルで裕福だったのか。
 長州は元々山が多く田畑が少なく従って収穫はすくなかった。そこで米の品質を高めようと考え、米の収量が少ないなら紙や蝋を作ろうという発想を呼び起こした。防長4品といって当時全国的に高い品質を誇ったのが米、紙、蝋、塩であったという。しかも北前船の荷を下関で全て買い占め、大阪に荷が行かないように仕向け、相場を見ながら大阪で売る知恵をつけていた。長州の民衆のしたたかさと裕福さの源泉がみうけられる。

5.結び
 革命や改革の陰には大変な犠牲の歴史もあることも常に知るべきではないか。後世の歴史小説家が、ある特定の人物を抽出して描く人物像や世相と、歴史的事実とは必ずしも一致しないことが大いにありえる。なぜなら歴史小説家はその人物が到達した結果からその人物の過去を振り返っていくために、その人物の負の部分をそぎ落としてしまいがちだからだと思われる。けっして吉田松陰や高杉晋作の業績を軽視するわけではないが、その人達とその人達が置かれていた状況を正確に知ることが必要なのではないかということだ。歴史とは事実の積み重ねであって、偉人や英雄のためだけのものではないし、偉人や英雄が結果として生まれた土壌も事実で検証される必要がある。そうでなければ重大な歴史的事象を本当に認識し伝承することにはならないのではないか。郷土の気風、文化を育んだ事実としての本物の歴史を学ぶ意義は大きいと思う。
                          以上
 これは一坂太郎氏の講演を聞き、共鳴感動したため、講演要旨を私なりにメモしそれをまとめたものです。従って一部、講演内容と一致しない部分があるかも知れませんが、それは私の責任になります。

                      99. 7.12



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