No22 公共事業の表現はもっと厳密にすべき
99.12.15 藤島公平
昨今、放漫財政の元凶として「公共事業の垂れ流し」の論調をよく目にする。これは一面では当たっているが必ずしも正確でないと思う。
公共事業といってもその範囲は広い訳で、国や自治体が行う事業はすべて「公共」事業である。もし国も自治体も「事業」をしなくなったら何のために存在しているかわからないことになる。今問題になっているのは公共事業のなかの「公共工事」のことを指していっているのであろうが、その公共工事にしてもまた大変範囲が広いのである。
福祉にもっと予算を配分してほしいという世論はつよい。それは大事なことであるが、その福祉を充実させるためには、保健所、病院、福祉事務所、養護施設等がなければ福祉を実施する場所がない。この場所を造るのも公共工事である。失業者に雇用保険を給付する為の手続きをするのは公共職業安定所である。不当な解雇や不当労働行為を監視するところとして労働基準監督署というところもある。これらの建物を造るのも公共工事である。
交通渋滞を解消しろという。その為には道路の拡幅やバイパス道路の新設、信号機の設置等の公共工事が必要である。
教育環境を改善すべきという。その為には小中学校や公立高校・大学の施設の拡充、保全が必要である。これも公共工事である。
もし前述のようなことに、公費を投入したら市民・国民は公共工事の垂れ流しと言うだろうか。ほとんどの人々はそのことによる便益を受けるわけで、決して垂れ流しなどとは言わないだろう。
しかも上述の種類の多くの工事は地元の建設業者の手で工事がされる。そうすれば地元の従事者に雇用と給与がもたらされ、地元の建材業者、関連外注産業などに仕事が回る。各自の収入は地元で消費され他の分野に資金が浸透する。その結果、資金が国から発して国民を経由してまた法人税、所得税として国に還流する循環が起こる。
ところが一方で有名な「臨海副都心」や「飛行機の飛ばない空港」「自動車の通らない有料道路」や米の生産調整をしながら一方では「諌早湾の干拓事業」といった具合で、ムダを絵に描いたような事業もある。これも公共工事と公共が管理すると言う意味では公共事業である。バブルの真っ最中に計画を立て、バブルがはじけたころになって、巨費を投じて「意地」になっているといっても過言でないような展望のないことをやっている。このような公共工事・公共事業こそ垂れ流しなのである。
これらの工事の多くはゼネコン(総合建設業者)と呼ばれる一部の大手建設業者によって仕組まれ、政治家を動かし、仕事のための仕事づくりとしておこなわれる。この場合、資金は多くは東京に本社を持つゼネコンに金が入り、ゼネコンのバブルの後始末のための負債整理に多くの資金が流れ、地元にはほとんど残らない。後には自然を破壊して造られた巨大なムダな造形物だけが残る。
この場合、資金は国から発してゼネコンを通って負債整理のために銀行に吸い込まれていって沈殿する。銀行は不良債権整理ということで法人税は大幅に免除されている。銀行員は首切りの嵐の中で所得税の納税は減り続けている。つまり資金の動きに対して税金として国に還流する部分が少ない。そこには適正な循環はない。
だから経済効果の無い公共事業といわれる所以である。そして銀行は莫大な国家資金の垂れ流しを受ける一方で、ゼネコン経由の資金回収をはかり、結局、銀行もゼネコンも国家資金で自らの尻拭いをしているのである。
前者の公共工事は市民の必要性から発した需要によって行われる工事に対して、後者は企業の事情から発して起こる工事である。
従って公共事業を言う場合は「無駄で経済効果のない公共事業」と「有益で経済効果の期待できる公共事業」を分けて考えるべきだし、政治家もマスコミも明確に分けて表現すべきである。
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