No23.オウム問題、西村発言での見解

                      2000.1.1  藤島公平
 

 ある方から2000円札問題、オウム問題、西村発言での質問がありそれに答えたものです。

質問の主旨

 「2000円紙幣の発行に よる経済効果を無視している訳ではありませんが、一方でほぼ同程度のコストが別の業界にかかってくるということで、効果が消し合うと思うのです。」と、言われていますが、コストがかかるということは、マクロでは負担ですが、経済全体から見ればお金を使わないといけない状況を作る事で、世の中にお金が回ると言う事です。どこかの仕事が増えて、経済効果が出るということです。
 今の不況は、先行き不安で世の中がお金を使わないという状況からきています。お金を回転させる政策こそ、景気対策だと思います。貯蓄を増やす政策は、経済に対してマイナスです。
 別の業界にコストがかかることになれば経済効果がでたということだと思います。

 朝日新聞の声の欄を読んでの感想として、西村発言に対してマスコミの反応は感情的になりすぎている。要は「西村氏の持論も立派な主張だから、反対するなら理論で応報してほしい。西村氏は持論を言っているのだから、これに対抗した理論的な議論を望む。」というものでした。そして自分は西村氏の意見を支持しないが・・と、自分の意見も書いてありました。

 マスコミがオウムに対して社会的に過剰な批判をして、人権を侵しています。というのは、オウムだから社会から締め出されても当然だという報道をどう思いますか?
 たとえばオウムの住民の転居届は受け付けるけど、転入届は受け付けないという役所の判断をどう思いますか。どこの法律にそのような人権侵害が許されているのでしょうか。超法規的判断ってありうるのでしょうか?
 他人の人権侵害に気が付けば、誰の人権も尊重しなければならないと気が付くはずです。
 オウム対策特別法案に関しても、将来の犯罪に関して、現在を規制するという法律があっていいものでしょうか。
 どんどん人権に関して怖い世の中になっていく気がします。

質問への返信

 貴方の問題意識の旺盛さには敬意を表します。

 さてオウムの問題の前に2000円問題ですが、ある業界におけるコストの上昇が収益に結び着くのであれば賛成ですが、券売機などの改善を負担する側にはその設備投資による収益アップが期待できないところに一番の問題があると思うのです。


 西村元防衛政務次官の件ですが、西村氏が核武装論を言った背景には日本がアメリカから独立して独自の地位を築くべきである、ということが根底にあると思います。その背景にある想いには私は同感です。
 最近グローバルスタンダードといいながら、大部分はアメリカ流のスタンダードの押し付けが目立ちます。なぜ「ノー」と言えないのか不思議に思います。日本の政治権力の裏側にアメリカとは切ても切れない何かの関係があるのか?。もしかすると、かって話題になった「M資金」というのが生きていて、アメリカに暴露されてはならない大事な秘密を握られているのかな?と推測してしまいます。
 今、今後の日本の進路を考える場合、今後もアメリカにくっついていくのか、それともアジアの中で経済協力体制をつくっていくのかの岐路にあると思います。その意味では日本は選択肢をフリーハンドで握るためにも軍事、経済、政治のあらゆる面でアメリカから独立して、アメリカともヨーロッパともアジアとも等距離で付き合う独自の地位を確保すべきだと思います。そういう想いには賛成です。
 だからと言ってなぜ核武装なのかの疑問が残ります。先日サンデープロジェクトに出ていた石原東京都知事が、「昔、一緒に竹島に日本の旗を立てに上陸した同士としてどう思いますか」と話しを向けられて、石原氏は「冷戦構造の中で核武装論を言うのは意味があったが、今の段階で言うのは時代感にずれがある」と言っていました。
 核武装を今言い出すことに何の意味があるのか。北朝鮮に対する牽制程度ならあまり意味をなさないと思います。北朝鮮は早晩内部崩壊すると私は思います。
 では中国やアメリカと対立する覚悟まであってやるのなら彼なりの意味があるでしょうが、そこまで煮詰まってもいない現状でわざわざ言い出す意味が分かりません。いずれにしても国防は自立してやるべきだと思いますが、核武装は国防という視点より政治的な意味合いが大きい問題です。国際情勢と切り離して論じるものではないと思います。


 オウムに関して、「マスコミがオウムに対して社会的に過剰な批判をして、人権を侵しています」というご意見について。
 私はオウムという宗教団体が、
 1.大量殺人計画を組織的にやっていたという事実(裁判中だから確定できないといわれるのであれば論外ですが)、
 2.その計画がハルゲマドンという彼らの宗教の考えから発したものであること、
 3.オウムが組織としてその事実を未だに認めていないこと、
 4.従って今後も同じことをやらないという保障がないこと、
を考えると単に一宗教団体に対する思想・信条・言論の自由の問題とならない性格をもっていると思います。つまり宗教団体というよりも組織的殺人者集団としての意味が前面に出てしまったという事実を考える必要があると思います。
 ただし組織としてのオウムとは別にして、個人としてのオウム信者の人権をマスコミや社会が干渉する権利があるのかというご意見ですが、私も個人の人権と組織の問題とは切り離されるべきものと考えます。
 ただし、オウムが組織としてある町や村に集団で移転することになると、個人の人権の問題よりは組織の問題が出てくると思います。
 各地で暴力団事務所を町から追放するという騒動がありますが、暴力団員といえども個人としては人権は保障されるべきと思いますが、組織としての暴力団の存在がこの場合問題になるっているのと似ています。ただし暴力団の場合は立ち退きを運動として市民がやっているのであって、何らかの違法性がない限り、行政が立ち退かせる法的根拠はありません。
 同じように何らかの違法性がない限り、行政がオウム信者の個人の住民票の不受理は違法だし、後追い的な法規制は憲法の主旨に反するもので法体系を崩すことになると私も思います。
 ただしオウムが組織として組織犯罪を認めず、また認めていないことを承知でオウムに参加している以上、オウムが市民運動として追放運動に合うことは本人達も覚悟すべきものと思います。

 私は思想信条の自由は何人も侵してはならないという原則は当然守るべきだと思います。しかし犯罪の自由は別です。彼らが組織犯罪とは関係ないというのであれば、彼らの方から積極的に組織犯罪がなかったことを証明すべきだし、そのことを曖昧にしたまま、思想信条の自由を盾にするとしたら、自由の意味そのものを侵害する行為だと思います。



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