No24. 2000年に思う
真の共生・共存が実現するには
2000.1.1 藤島公平
共生とは文字どおり「共に生きる」であり、共存とは「共に存在する」である。互いに違いを認め合った上で、相手の存在を認めるということである。しかしどの様に共に生き、共に存在し合うかが問題である。
例えば「人間と自然の共生」とよく言われる。しかし共に生きるといっても「自然が人間に危害を及ぼさない範囲で」ということが言外に隠れている。例えば台風などの自然災害から人間を守る為に自然を破壊して堤防などを造ることも、自然に生息する動物や植物を食料として殺すことも、ある程度認めるという前提付きである。つまりこの場合の共生は一方側の人間に全ての決定権、裁量権を持ったままの共生である。ただその裁量権を出来るだけ最小限に止めようとする意図を表明しょうとするのが「共生」の表現であろう。しかしこれは本当の共生ではないと思う。
人の場合も共存とか共生という言葉が使われることがあるが、人と人の共存、共生とは果たしてどうなのであろうか。端的な例が民族の違い、宗教の違い、分化の違いによって、人は否が応でも区分されてきた。同時に自らを他と区分しようともしてきた。
第二次世界大戦以後は民族自決運動が盛んに起こった。それは植民地支配からの独立が最大の根拠であった。そこにおいては、少々の民族的、宗教的な違いは脇に置いて、当面大同団結して植民地支配層の追い出しに力が注がれた。そして民族の将来は他に強制されるのではなく、自らが決めるという決意の表現だった。
ところが最近起こっている現象は、コソボ問題などに象徴されるように、他民族や他宗教の人々を地域から追い出すといった、より規模が地域的であり、より接近した関係での紛争が多発している。極端にいえば隣人同士が殺し合いをすることも珍しくない。これは多民族や多宗教の人々を強権で支配することで、その対立の芽を塞ぐ効果があったのが、その支配力がなくなった途端に、過去の経緯も含めて、急に恨みや憎しみが首をもたげてきたようにみえる。
では元のようにある種の支配層が強権で支配していた方が幸せだったのだろうか。それでは人間と自然の共生とどこか似通った問題となってしまう。ある種の階層、民族又は宗教がその他の階層、民族又は宗教を強権で反発させないようにした状態での「共生」だったのではないだろうか。そうだったからこそ過去の支配は否定されたのであろう。
では人間集団と人間集団の共生は本当に可能なのであろうか。
民族とは広辞苑によると「同一の人種並びに地域的起源を有し、または有すると信じ、歴史的運命および文化的伝統、特に言語を共通にする基礎的社会集団」となっている。このように民族を区分するとどこの国にも必ずといっていいほど民族の区分は成り立つように思う。
例えば日本人にしても、民族の定義の前半を無理矢理当てはめれば、アイヌ民族は勿論として、弥生人種(北方系)、縄文人種(南方系)の人種が区分される。両者は顔の輪郭や骨格で判断できるそうである。しかし誰も弥生系民族、縄文系異民族とは言わない。つまり民族の定義の後半の部分にある「歴史的運命および文化的伝統、特に言語を共通にする基礎的社会集団」という意味では民族とはいえない。
勿論日本史の初期には民族対立はあったであろう。しかし千年以上の歴史が両者の違いを解消してきたのである。その過程には悲惨な運命をたどらざるを得なかった民族も有ったであろうが、「歴史的運命および文化的伝統、特に言語を共通にする基礎的社会集団」として結果的に融合し一体化されてきたのである。
ところが世界の各地でなぜ未だに同一国内で民族、宗教対立が起こっているのであろうか。
私は、根元は民族や宗教の違いにあるのではなく、その違いを殊更、表に出して他を差別したり、差別的な意識を生ませることにあると思う。そして、ほとんどの場合が支配層や一定の意図をもった組織によって、その差別は覚醒され、拡大されて、そして利用されているのである。
人の世には様々な種類の差別がある。民族差別、人種差別、地域差別、思想差別など、どの差別をとっても支配層、又は新たに支配しようとする者達にとって都合の良いものである。一方では、支配による民衆の不満を支配層に向くのを避け、解消させるという「ガス抜き効果」がある。また他方では、民主主義的手続きなどお構いなしに「理不尽を通す」ことが容易にできる。
「あいつらに較べれば俺達の生活はまだましだ」「あいつらがいるから俺達が不幸なのだ」「あいつらさえいなかったら幸せなのに」と見当違いの歪んだ差別意識を醸成させる。そしてその結果「あいつらを一人残らず追い出せ!」「殺してもかまわない」という意識までヒートアップさせられていく。
旧ユーゴやアフリカの一部で起こった民族や宗教に名を借りて起こった「紛争」は、私の判断では、明らかにリーダー層が意図的に民族・宗教差別を煽ったことは明白である。そして民族の共存を一切否定し、民族浄化運動という名で大量の虐殺がおこなわれた。まさに前近代的な蛮挙が公然と行われた。そして国連が出向く頃には、国の再建のために中心となるべき有能な人材はほとんど殺されてしまっている。そして後には、ならず者とそれにまぶりつくハイエナが支配する場所となっている。
私はこれらの「紛争」は、民族自決権を旗印に植民地支配からの独立のために立ち上がった、いわゆる民族解放運動とは全くかけ離れた、民族や宗教に名を借りた「ならず者の縄張り争い」でしかないと断じたい。
だから、
@国連がその「紛争」に関与するのであれば、紛争終結後速やかに、虐殺に関与した人物、組織を国際的な監視の中で、そこの国民によって裁かせるべきである。このような蛮挙には必ず厳しい追及と罰が与えられるという法治意識を厳に示すべきである。このことがない限り今後も世界の至るところで同じ様な惨劇が起こることになる。そしてここに国連の主体性を示さないと、中途半端な関与にしかならないことになる。勿論関係者の民族や宗教や思想には一切関係なく、暴挙に対する事実審理によってのみ裁くべきであることは言うまでもない。
Aそれと問題は差別意識である。世界からあらゆる差別意識を追放することが大事である。そのために、国際規模で差別追放キャンペーンを展開する必要がある。地球規模で自由と民主主義を根付かせるには、差別意識が大きな障害になる。この事業は確かに時間のかかることではあるが、少なくとも差別を利用した「紛争」を許さないためにも、絶対にやらなくてはならない事業である。
Bそして差別の温床は貧困と教育の荒廃にある。この温床を取り払わない限り、いつでも首をもたげてくるのである。
Cさらに言うならば、殊更民族性を強調するべきでないということである。民族性を捨てろとは言わないが、その国の国民としての意識、地球人たる人間としての意識を優先する事を、一つの哲学として、思想として広める必要がある。それを世界に影響力を持つ見識のある人々が、率先して世界に向けて啓蒙することを望みたい。
そしてさらに言うならば民族性そのもが消えていく方向を望みたい。確かに生活習慣、食習慣などの同一性という文化・文明の存在はそう簡単に消え去るものではないだろう。しかし文化性の違いを殊更強調することに何の意味があるのか。文化の違い=民族の違い=民族主義という流れがおかしいのである。
文化性はその人、人々の生き方に係わる問題なので、それは自由であるべきである。だからといって民族性まで高める必要があるのか。いわんや民族主義なぞ全く必要ないと思う。
文化の違いは文化の交流の中で、時間とともにより次元の高い文化へと発展していくものだと思う。私は自らの文化性を強調するよりも、他の多元的な文化を受け入れることを重視する方向に進むべきだと思う。
この前提がない限り、異質の人間集団相互の共生も共存も、常に危険をはらんだものであり続け、強制力をもってしか治められないという悲劇が続き、共生も共存も永久に絵に描いた餅になると思う。
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