No34.どこかおかしい、クジラ救出の「美談」


                             2002. 1.27  藤島公平

 鹿児島県の海岸にクジラの群れが迷い込んだのか、十四頭が海岸の浅瀬に乗り上げていたという。そして地元の人はこのクジラの救出のために悪天候の中、「決死の覚悟で」救出にあたったという。ご苦労なことである。
 私はなぜ「棚ぼた」と喜んでこのクジラを刺身にして食べないのかと不思議に思う。十四頭ものクジラの肉といえば相当なもので、昨今の不景気のなかで無駄にするのはもったいない話である。

 日本では鹿児島県はもちろん各地で、昔はクジラ漁が盛んに行われていた。昔は海岸近くまでクジラが寄ってきていたので小船の集団で海岸の浅瀬に追い込んでモリなどでしとめていたという。一頭でもしとめれば大猟だったことだろう。

 さて、今では日本人はクジラを食べる習慣が無くなったのだろうか。いや私は幼い頃は牛肉などめったに食べられない時代だったので、成長ざかりをクジラの肉によって支えられたようなものである。今でもたまにクジラの肉に接すると大満足である。またクジラは肉だけでなく、あらゆる部分が何かの素材として使われる貴重なものであったとも聞いている。
 昔だったら今回の珍事は、「天からの最高の贈り物」と喜んだことだろう。ところが今ではなぜこうなっているのか。地元の人たちはこう考えたのかもしれない。「座礁したクジラを捕獲して食べたということが知れたら世間から何と言われるかわからない」「ここはとりあえず救出するしかない」と生唾飲み込みながら言っているのかも。
 しかし、食べる習慣の無いイルカやアザラシならばわかるが、食べる習慣のあるクジラを逃がす手はない。ところが国際的にクジラを捕獲することを制限されていることから、地元の人たちもつい萎縮してしまうのであろう。

 先日ある番組で、ミミズを食事のだしにつかいピラニアを食べている人たちをみた。その人たちはカブトムシの幼虫もおいしそうに食べていた。これを見て子供たちは「気持ちわるい」といった。世界には蟻をたべる人たちもいる。猿の脳みそを食べる人たちもいる。しかしそれはその人たちの食文化であって、他の食文化をもつ人たちがとやかくいえる問題なのか。牛や羊を殺してたべる人たち、鶏を身動きも出来ないような狭いかごに押し込んで飼ってそれを食べている人たち、赤ちゃんになる前に卵の段階で殺して食べる人たちがいる。その人たちが違った形で食物を摂取する人たちのことをとやかく言えるのか。それは大変傲慢なことと思う。

 もし知能のある生き物を殺して食べてはいけないのであれば牛も羊も食べてはいけないはずだ。クジラと知能程度の比較の程は知らないが、程度の差を問題にするのであればまさに差別の最たるものである。

 クジラや牛を食することの問題は、日本がかってクジラを乱獲をしたことにあるのかも知れないが、そのこととクジラを食する文化とは別の問題である。

 牛は牧場で生育させているが、クジラは自然に育っているから違うというひとがいる。
 しかし私から言わせれば、逆に哺乳動物の自由を奪い、成育を人為的にコントロールする人間の罪深き行いと、自然に自由に育つ生物を捕獲する罪深き行いとの、罪の深さの程度を論じようなもので、つまらない論議である。植物であろうと動物であろうと、それを殺して食べるという行いは人間だけでなくすべての生物に共通することである。何らかの形で他の生物の犠牲の上に生息せざるを得ないと言う、まさに自然現象にほかならない。菜食主義者といえども植物の犠牲の上に生きていることに違いはない。
 このことに異議をとなえるのであれば 「罪深き創造主」 に文句を言うか、何も食べずに死を選ぶかである。動物をつかって幼い子供たちをギャラリーとする心にも無い変な「美談」はやめてほしいものでる。 



戻る