2002.12. 3 藤島公平
小泉内閣は「構造改革無くして経済成長なし」をスローガンに政策をすすめている。この構造改革とはなにか。自分の知るところ行政改革、財政改革、政治改革、教育改革などの総合的な表現だったと記憶している。
行政改革では、政官財の癒着の構造を断ち切ることにあったとおもう。確かに外務省にはびこっていた外務省の族議員の代表とされるムネオ議員は追放された。また道路族との戦いの最前線とされている道路公団問題は紆余曲折しながら未だ結果は見えないが進行中である。
しかし政治家だけの問題ではなく官僚組織の体質にも問題があったはずであるが、その方面はどうなったのか。官僚組織と派手に戦いを挑んだ田中真紀子氏は官僚組織の巻き返しの中で集中砲火をあび、頼みの小泉首相も知らぬ顔で結局は放り出された。本当に政治家と官僚の体質は変わったのか。私はその実態は変わっていないと思う。ただしばらくは息を潜めているに違いない。なぜなら、政策の詳細は今でも官僚が作って政治家にレクチャーしそれが政策になるという仕組みはぜんぜん変わっていない。また官僚が出世するかどうかのカギは官僚のトップが未だに握っているのである。トップに逆らう官僚は生まれない体質は変わっていないのである。
少々荒かろうが、田中真紀子的手法は必要だったのである。田中真紀子氏の顛末をみて石原行政改革担当大臣は心の中平穏でなかったはずである。「旗振り役の大将の腹のうちが読めなくなった」。言われたとおりやるのはよいが、いつ知らぬ顔を決め込まれるかわからないのでは気合が入らない。だから双方手打ちの為のいわゆる「落としどころ」に、ついつい意識がいってしまう。結局は中途半端な「改革」になるであろう。
財政改革はどうか。「国の借金漬け状態からの脱却」を旗印にした点はよしとすべきであったが、借金をしないためには支出も抑えなければならないのに、銀行への公的資金に代表されるように大手銀行への手厚い保護のための支出は増えている。一方国の健全な、つまりは借金でない収入となる税収については、一向に増えない。
なぜなら借金をしないためと称して国民の為には金を使わないこととしているためである。そこで国民はモノを買わなくなってくる。従ってモノが売れなければ商売の景気は悪化する。だからモノの値段を下げてでも売ろうとする。するとコストダウンのために従業員の首を切らざるを得なくなる。そして巷には失業者があふれてくる。「セーフティーネット」といって失業しても大丈夫だよと言っていたものも、失業者が増えているにもかかわらず、雇用保険の支出は逆に減ってきているという。つまり財政改革の行き着いたところは、国民に金が行き渡る仕組みを打ち壊したことなのである。デフレ経済というが、供給過多によるものではなく、需要の萎縮にあるのである。
なぜこうなったのか。金融機関をつぶすと金融システムがパンクし、株価は下落し、為替相場は下落し、国がパンクする。つまり経済恐慌が発生するからという。しかし金融機関をパンクする方向に操作しているのは誰か。
不良債権処理と称して、破綻していない債務者までも不良債権の一部としてみて、銀行に無理やり引当てと言う形で処理させる。そのために、銀行の自己資本比率は悪化し、経営を守るために貸出業務を縮小し、貸出金の回収に走らざるを得なくしている。そのために健全に近い会社までも経営悪化に向かわせているのである。
また経済の構造改革と称して高付加価値の新たな産業の創出をいいながら、その起業家の経営の芽をつぶす結果となっている。だから新らたな産業は創出されるわけがない。ノーベル賞を受けた田中氏のことは喜ばれても、田中氏的な人が活躍する場が今の日本からどんどんと姿を消してきているのである。
既存の経営と新たな経営の芽をつぶし、国民に金の行き渡らないことでどのようにして国の経済は成り立つのか。国の経済があって初めて税収が得られ、それによって国の借金を減らすのが当然の道筋だとだれでも思うことである。しかし借金を減らすといいながら、借金を減らす財源を益々細めている矛盾。しかも小泉氏が言うように少しの間我慢すればその矛盾が解決するのか。その保障も展望も見えてこない。
私は抵抗勢力とされている政治家たちの「先ずは景気回復」という方向が今では説得力をもってきていると思う。日本経済が衰退し、その機会に日本を買おうと虎視眈々としている外国資本には小泉流「構造改革」は歓迎されても、当の日本国民にはもう我慢の限界にきている。まず国民の懐を少しでも豊にして欲しい。ただし、その為にまた族議員の闊歩を許すのはごめんだ。しかし早晩、族議員たちの温床である政党政治そのものが国民からそっぽを向かれることであろう。その流れは地方から徐々に迫ってきている。