2004. 7. 8 藤島公平
今日のテレビニュースで、東京の早稲田商店街というところで、投票に行って「投票済み」カードをもらって来た人には、「商店街を挙げて割引サービスをしますよ」というニュースが流れていた。このことで投票率アップに一役買うのだと、報じられていた。
私は、あのコマーシャルの大滝秀治のごとく 「実にくだらん」と、言葉を吐き捨ててしまった。
選挙で「投票する」のが「国民の義務」とよく言われる。だが、それは本来言われている民主主義の原則から考えて正しいのだろうか、という疑問を感じる。
せめて、選挙で「自分の意思で政治を選ぶために投票する」のが「国民の義務」といわれれば少しは納得できる。しかし「無理やり」に「利益誘導」で、投票所に足を運ばせ、「自分の意思」とやらもよく分からないままに、「投票」という形の「政治参加」では、ただの「員数合わせ」にしか過ぎないと思う。
また前述の商店街の試み、努力の程は認めるが、商店街の活性化という視点に立ったとしても投票日だけの一過性のイベントであって効果が疑わしい。
投票率が低いと、投票結果に対する「正当性」が薄れると危惧するために、投票率を上げたいというのであれば、これも筋違いだ。「正当性」が薄れているから投票率が下がっているということではないだろうか。
投票しない人は、「政治に対する意識が薄い国民である」という指摘、私は間違っていないと思う。問題はそのような「意識が薄い国民」を生み出した「政治」は責められないのかということである。
「政治に対して感心のない国民」は、自分の生活にもかかわっる事柄、例えば「年金問題」や「多国籍軍へのなし崩し的参加」「老年者への課税強化」などについても関心がないのであろう。
もし、自分ことに係るのに関心を示さないのであれば「馬鹿なこと」である。しかし、その様な「馬鹿な人」をつくってきた責任は「馬鹿な人」たる本人だけにあるであろうか。いや「政治」側に大いにある。
「与党」は、もちろん第一義的な当事者として責められるべきである。
しかし、「野党」も「与党がつくりだした『悪い政治』が『無関心』を導いた」と言うことがある。「じゃあ、野党たる貴方たちは、国会の内外で何をしてきたのか」と問われたら、まともな回答が得られるだろうか。
ただ「○○反対」と言ってきたとしても、それは「政治を正す」こととは違う。もちろん「警鐘を鳴らしてきた」という程度のことは否定しないが、だからと言って「何かを正してきた、何かを生み出してきた」とは絶対にいえない。ましてや単なる「スキャンダル探し」に至っては何をかいわんやである。
日本でも、60年代や70年代には、政治行動として時の権力に、対抗的な意思表示をしていた時代もあった。しかし、現在ではほとんど、というより全く影響力を行使しきれていない。
ところが、「我々は断固として反対してきた」ということを拠り所にしている、「野党」の政治論調に次元の低さを感じる。「○○反対!」を訴えてきたことが「政治を正す行動だ!」、という一人よがりの勝手な思い込みが、過半数の国民を「政治に対する意識が薄い」白けた国民にしていったことなのだ、という反省につながらなっていないし、自らの落とし穴となっている、ことも気が付いていないようだ。
もっと言わせてもらうならば、なまじの「野党」がいるから、国民の、政治への反発の感覚や意識を「ガス抜き」される作用を果たしていて、「野党」という勢力の思いに「反して?」、「与党」を助けているのではないかという、疑いさえ持ってしまう。
「野党」が本当に政治を正すのであれば、支持が低かろうが、どうであろうが、新たな政治体制や確信する政策を唱え続けるべきである。そして、そのための国民的行動を指揮し、国民の意識を行動化するよう努力すべきである。
投票という世界では、支持が低いから「野党」なのであるから、頼るは日常的な行動力でしかない。それを忘れた「野党」には、自力での「与党」への道はありえないし、従ってその主張が実現することもない。
過去の我々の先輩である、世界や国内の哲学者や政治運動家のごとく、とりあえずは支持を受けられないが、自分の生きているうちに支持が得られなくても、「必ずや将来の国や世界を動かす『力』となる!」 という信念をもって主張してほしいものである。
「野党」という、「与党」に比べれば、ある意味で、自由な発想が出てきてもよい環境にありながら、「与党」の政治のわく内で、「反対」とか「部分的賛成」とか、「スキャンダルがどうの」とチマチマとした「論戦」を展開してきていることが、多くの国民を「馬鹿な人」にしていることに、なぜ気づかないのかと腹立たしく思う。
だからこそ「馬鹿な国民」が過半数を占めている現状が出来上ってしまっている。そのことを直視せずに、投票しない「馬鹿な人」を責めるのは思い上がりである。
もっとも、「投票しない」人は、「投票しなさい」と責められても、そんな「指摘」にも「関心のない人」が多いと思われるので、非難そのものの効果が極めて薄いと思われる。
「政治に関心のない国民」をよそに、「『政治に関心のあると思っている』国民」と「政治に関心をもたせたい」という政治家やマスコミの間だけの、狭い範囲で、「国民の『投票の義務』」をあれこれ論議しているもので、極めて空しい。
「投票したくない」人間を、利益誘導 (割引など明らかに利益誘導) で投票所に足を運ばせ、誰かの名前を書いて投票させることに、どれだけの意味があるのか。
それよりも、とことん政治的無関心を放置して、それによって、政治が自分たちの生活とはかけ離れていって、「ひどい政治の現実」を国民が腹の底から体験しないと、政治へに関心は復活しないように思う。
ただし、関心を持ったときには、民主主義もなく、政治参加が閉ざされているという事態になっているかも知れない。
その意味では「政治に関心があるといいたい国民」も「政治に関心のない国民」も、同じ国民として、ギリギリの局面でのシノギあいが、いつの時点か必要になる。その時には「政治に関心のない国民」に対しても、「普通の言葉」で、事態の重要性と将来展望を語れる政治家が求められる。「求められる時代」にならなければ「求められるべき」リーダー、政治家が出てこれないのも、歴史的リアリティーである。