2004. 9.17 藤島公平
昨日、「華氏911」のマイケル・ムーア監督の別作品「ボウリング・フォ・コロンバイン」というドキュメンタリー映画をテレビでみた。テーマはアメリカの銃による暴力であった。
この映画は、一般のドキュメンタリー映画と異なり、監督であるマイケル・ムーア自身が、ぶっつけインタビューによる取材を通してテーマに迫ろうとするものであった。彼の壁にこだわらない何でも取材してやろうという突撃精神には驚いた。どの程度までタブーを掘り下げているのかは分からないが、大いにタブーに挑戦しているのは感じたし、テーマに対してありきたりで、安っぽい結論を求めたくないとする彼の姿勢がよくうかがえた。
コロンバインとはロッキードの軍需産業の城下町であるが、アメリカのごく一般的な田舎の街で、そこにあったごく普通の高校、コロンバイン高校で、2人の高校生が銃を乱射して十数名の学生や職員を射殺した事件を掘り下げている。その2人の高校生が事件の直前に授業をさぼってボウリングをしていたということと、ボウリングの様に街の雰囲気をなぎ倒したということとの絡みで「ボウリング・フォ・コロンバイン」という題名になったのであろうか。
ドキュメントはその事件はなぜ起こったのかということから、アメリカの銃社会のことに接近する。確かにアメリカは銃が人口より多い国である。銃によって一年間に一万人以上が殺されるという。では銃が多いから殺人事件が起こるのか。
そこで隣の国のカナダを取材する。カナダも人口より銃の数が多いということでは銃社会である。ところがカナダでの銃による犯罪は少ないという。「ドアにカギをかけるか」というインタビューに多くのカナダ人がカギはかけないという。「なぜかけないのか」と質問すると、「カギをかけるということは近所の人を信用していないことと同じになる」という。また「アメリカ人はカギをかけることで、外からの侵入を防いでいるのかも知れないが、自分たちはカギをかけることで閉じ込められているように感じる」とも言っていた。
アメリカもカナダも銃があふれる社会なのに、アメリカはカギを何重にもかけても安心できない社会で、カナダはカギをかけなくても生きていける社会である。何がその違いを分けるのか。
アメリカは人種のルツボだからという意見に対して、カナダにも黒人や黄色人種も一定程度住んでいるという。
アメリカが開拓時代から血塗られた歴史をもつからという理由付けには、ではイギリスやドイツ、日本なども暴力的だった歴史を持つではないかと反証する。
アメリカは暴力映画が多いからという理由付けにも、イギリスやドイツ、日本そしてカナダでも暴力映画は上映されているではないかと反証する。
そして、アメリカでの問題の本質は、様々な事件をことさら煽り立てて、不安を駆り立てる政治的思惑やそれに影響されたマスコミの報道姿勢にあるのではないか、と迫る。それはブッシュの時に始まったわけではなくクリントンの時代にもそれ以前にもあったという。
つまりアメリカは開国以来常に「不安」を駆り立ててきた歴史だったという。そしてその「不安」に対処するビジネスが常に盛んに展開しているという事実に注目する。アメリカの暴力社会のキーワードは「銃」ではなく「不安」ではないかと。
アメリカは今「テロとの戦い」を世界で展開している。「テロ」という正体がよく分からない敵との戦いは「不安」そのものである。自分のそばにテロリストがいるかも知れない。自分と同じような姿をしながら機会を待っているテロリストがいるかも知れない。
「あなたを銃で襲うとしたら誰ですか」とゲームセンターのような場所でインタビューされたアメリカ人が、「襲うとしたら彼とか彼とかだ」と周りの人たちを指差す。彼にとってはアカの他人のようにみえる人たちの様だったのが印象的だった。つまりアメリカの「不安」は、「周りの誰もが信用できない」ことなのであろう。
「ビートたけしのこんなはずでは!世界を震撼9・11同時多発テロ!ブッシュは全てを知っていた!?七つの疑惑」という番組が9月11日にあった。その番組では9・11の同時多発テロは政治的に仕組まれたものだとして、数々の疑惑を説明する。
世界貿易センターに突っ込んだ旅客機は、最新のアメリカの軍事技術によってリモート操作されたものだ。ペンタゴンに突入したのは旅客機ではなくアメリカの軍事ミサイルだった。ビンラディン一族とブッシュ一族とは親交があった。などである。
にわかに信じるほどの物証があったわけではないが、ペンタゴンの激突現場写真をみても旅客機が突入した様子ではないことは分かる。この点は私自身も事件当時のテレビ報道の中で疑問に思っていたことだったので納得できた。となるとミサイルが打ち込まれたということなのか。しかもアルカイーダがアメリカの軍事ミサイルを自由に利用できるとも思われないので、アメリカの軍部が関与しているのか。この点だけは番組の説明を信じたくなった。となると番組が説明する疑惑の一点が信じられるとするならば、9・11全体の構図に疑惑が生じてくることになる。
アメリカの、例えばネオコンと軍部が結託した自作自演劇なのか、もしくはアルカイーダとされる勢力を泳がせて「ある程度自由に」テロをさせたのか。
ただ言えることは、アメリカの内部のある勢力にとっては、アメリカ全体が「不安」にかられることは望ましいことなのである。そのためには自作自演であろうが、真珠湾攻撃の様に「敵」に先制攻撃をさせようが、やり方はあれこれ考えられることになる。目的は「不安」である。
そしてその「不安」が軍需産業にも石油産業にも様々な利益をもたらす。そして何よりも政治的に少々過激なことを決定しても許される土壌ができる。「テロとの戦いのためには何でも許す」という国民感情である。
しかし、目的のためには自国民を何千人も犠牲にしてもかまわないという発想が怖い。しかし、この一点で躊躇しない「強い」意志があれば、イラクで捕虜を虐待しようが、一つの街を廃墟にして皆殺しにしようが「些細なこと」になる。アメリカのアフガンやイラクでの行動が別の意味で納得できる。
マイケル・ムーアの映画でも、ビートたけしの番組でもキーワードはアメリカ主導の「不安の煽り」であった。21世紀のアメリカの戦略が国内、国外をとわず、「不安」を煽り立てることで「世界の憲兵」たるアメリカ、「強い」アメリカを演出し、しかもちゃっかりと「ビジネス」につなげることにあることを確信し得た番組であった。