No67.日中の対立は必然か

                                   2005. 5.28  藤島公平

 最近、様々な問題で日本と中国、韓国との対立の構図が問題となっている。中国とは「政冷経熱」といわれている。政治的関係は冷めているが、経済交流は活発であるという。しかし、経済が熱するから中国に資源開発の必要性が増し、尖閣諸島近海での緊張につながっているとも言えるわけで、「経熱」は「政冷」の大元の要素でもありそうだ。また経済が熱するから中国国内に所得格差や都市と農村の格差、学歴格差を生み、政治的不安定要因となり、その原因を現地進出の日本企業に求める感情が生み出されていく。

 教科書問題はずっと以前から日中戦争勃発のいきさつや朝鮮併合問題、南京大虐殺の扱いなど、日本の教科書は中国や韓国を逆なでしてきた。また靖国参拝も小泉首相になって始めたわけではなく、以前の首相も公式か非公式か、個人か公人かの違いはあっても、A級戦犯が合祀されていることは承知の上で参拝し、同じくアジア諸国の感情を逆なでしてきた。最近になって特に大きく変化したわけではない。

 私は教科書のあり方について言うなら、日本が戦後一貫して戦争責任をあいまいにしてきたことがアジア諸国だけでなく日本国民の中にもあいまいな感情を残したきた経緯があることが問題だと思う。もっと早くから戦争責任を明確にしておれば、その上で未来に向かってアジア諸国と向き合うことができたと思う。日本国民のあいまいさは、侵略した側の国の現在の責任者である小泉首相が「罪を憎んで人を憎まず」と威張って言う見当違いの発言にみられるように、「中国や韓国はいつまで昔の戦争に固執するのか」「しつこいぞ」「今の日本は昔と違うのだ」という日本人の身勝手な感覚につながっている。しかし、侵略された側が今まで「罪を憎んで人を憎まず」の精神で交流してきてくれたわけで、その国の人々にとっては、この日本人の能天気な感覚が許せないのであろう。今までのあいまいさが教科書問題などでいつまでも尾を引くことになっていると思う。

 靖国参拝についていうなら、小泉首相の戦没者への哀悼の気持ちや宗教心は個人的に大いに大事にすればよいことで、首相になったから(テレビ報道によると首相になるまでは参拝したことがなかったとのこと)急に参拝し出すところに政治的きな臭さをかもし出してしまう。
 ただ、これらの傾向は以前からもあったわけで、急に今になって政治問題として「反日運動」(この表現は正確とは思わない)まで浮上してきたことが奇異に感じる。

 私の想像では、中国国内に様々要因(国力の成長と国内矛盾の発展など)から政治的な対立構図を醸成する潜在力が働いているのではないかと思う。そのために以前から保留状態となって解決しないまま放置されてきた教科書問題や靖国参拝問題や領土問題が頭を持ち上げてきたのではないか。その状況にもかかわらず、小泉首相や内閣の閣僚たちの状況音痴で無神経な発言や行動が、焼けぼっ杭に火をつけ、さらに火に油を注ぐことになっているのではないだろうか。

 しかし中国内に対立の潜在力があるとすれば、同時に日本にも対立の潜在力もでてきているのではないだろうか。つまり、発展する中国に対して、突っ張ってみせたい、かつての「先進国日本」があるのではないだろうか。中国が経済的に成長するなかで、日本と中国を冷静に比べてみた場合、経済力、人口や国土の広さ資源の多さなどの国力、そして今や迫りつつある技術力、どれをみても日本と中国とが将来にわたって対等の立場を維持できる要素がなくなりつつあるように思う。「このままでは日本は将来、中国の中に飲み込まれるのでは」と感じてもおかしくない状況だ。

 そうなればこそ日本が突っ張りたくなる潜在的動機は十分あるわけである。小泉首相の靖国参拝のような突っ張り方がよいとは思わないが、日本の政治的、経済的独自性を真剣に形成すべき状況にあるのは間違いないことだと思う。

 かつて、日本経済の根底にあったのは、江戸時代の鎖国で培われた自己完結型経済力ではないだろうか。だからわずかな経済の窓口となっていた長崎などから、オランダ、ロシアなどの外国の製品や技術を取り込んで自らのスタイルに仕様を変えてしまうしたたかさを持っていた。外国の製品をそのまま使うのでは、常に貿易し続けて補給しなければならないので、自己完結型経済にはなじまない。だから自分仕様に変える必要があった。その経済文化とでもいえる日本独自の手法が、維新後の開国によって外国からの知識・技術には貪欲だが、そのままでは使わず、日本式に仕様を変えてしまうことにつながっていった。これが日本の技術力の飛躍的発展の土台を作ったと私は思う。

 今の日本は、単に成長する中国に突っ張って見せるのではなく、もう一度この道を思い出すべきではないだろうか。日本が大国気分で資本や工場を中国などへ進出させている間に、日本の技術力や生産システムから産業構造までがどんどんと失われていっている。他国の技術を日本仕様にやりかえることを忘れ、今や他国に安価に売り渡すようになっている。そして他国が日本の技術を自分仕様にやりかえる道をすすめている。

 しかし日本は、島国で小国である。他国に与えるだけの国として存在し続けることは不可能だと思う。また他国と同じことをしていたのでは独自性は消え失せ、単にアジアの隅に「イモのヘタ」のようにポツント浮かぶ国でしかなくなると危惧する。グローバルとよくいわれるが、その前提は各国の独自性を捨て去ることではないのであって、日本の独自性を持ったままでのグローバへの挑戦が求められているのである。またナショナリズムをかきたてろと言っているわけでもない。日本という狭い空間に政治的、経済的、文化的に区切られたなかで住んでいる人間をもっと大切にしろと言っているのである。多くの評論家たちのグローバル発言を聞いているとこのあたりの勘違いを感じる。

 それから、日本は有史以来、中国大陸、朝鮮半島の文化や技術を得て生存してきた。中国発の文化が朝鮮半島の文化と交ざり合わさって日本に渡ってきた。そして日本で自分仕様に変えられていった。つまり日本と中国、韓国(北朝鮮を含む)はDNAとして同じ部分をもっているわけで、そのDNAの類似性の部分を確認しあうことが大切ではないだろうか。最近「韓流」がブームになっているが、ドラマなどをみても、日本のかつて若者感覚を思いださせる。だから「おばさま」族に郷愁をもって歓迎されるのかなと思う。つまり感覚的にも生活習慣的にも表面上は違うようにみえながらも、DNAの類似性があるからこそ起こる現象ではないだろうか。つまり相手を理解するというのではなく、相手が感覚的にもわかる関係であるということである。私はこのDNAの類似性をもっともっと掘り起こすような文化交流が進むことが大切だと思う。

 私は中国や韓国との付き合い方として政治的、経済的には自ら望んで対立を助長する必要はないが、しかし今後益々中国の経済的発展のなかで、政治的にも対立が深まることが予想される。だからこそ政治が暴発しないためにももっと各国の国民レベルでの文化的交流をすすめるべきだと思う。そして国民レベルでかつての戦争の責任問題も含めて論議する場も出てくるだろう。その時、ぜひ文化的交流を前提とした雰囲気のなかで対等平等に議論する環境であってほしいと思う。各国が経済的にも文化的にも独自性を持った上で、相手を理解し合うのではなく、相手と感覚的にも分り合える関係であるからこそ進められる交流であってほしいと思う。



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