No71.暴力(タレコミ)にふるえる社会

                                   2005. 8.24  藤島公平

 夏の全国高校野球の甲子園大会で優勝した駒大苫小牧高校で、同校の野球部部長が部員に対して振るったとする暴力を理由に優勝旗を返還する、しないの問題が起きているという。私は、こんな「事件」を問題化した者達とそれにそのまま単純に反応するマスコミに怒りを感じた。

 私は暴力を単純に賛美するものでもないし、指導者たる者は簡単に暴力に走るべきではないとも思っている。私は昔剣道をしていたときがある。剣道というと「しごき」と称した暴力が横行しそうに思われがちであるが、私達を指導された先生は、指導に暴力的なことはいっさい持ち込まなかった。その先生を私は尊敬している。私は暴力的な方法による指導には賛成しない。そのことを前提にした上で今回の「事件」について思うことがある。

 そもそも暴力は全て否定されるのか。日本という国は暴力というものを全て否定している国なのか。私は暴力の全てを否定するのであれば、警察も自衛隊とされる軍隊も、法律という縛りも、親の躾も、全て否定されることになるはずだと思う。これらは相手を何らかのかたちで強制的に従わせることを主旨としているからである。もちろん私は公権力的な暴力は極力制限されるべきであると思うが暴力という本質には変わりないと思う。つまり暴力とは大変広範囲に存在しているのである。もっというなら暴力一般がこの社会では否定されているわけではなく、一定の暴力で社会が維持されているともいえるわけである。

 従って問題にすべきはその暴力の内容である。指導と被指導の関係にある者の間で指導上ありえる暴力は、当事者間の許容範囲の中であればある程度現場の裁量にまかせるべきであると思う。それが傷害罪に問われるべき暴力であれば警察にまかせればよいことである。少なくとも「社会の公器」を装った「マスコミ」と名乗る者がしゃしゃり出ることではない。

 今回の「事件」の野球部部長が部員にどのような状況でどのような「暴力」をふるったのか、その部員の野球部での態度はどうだったのか、その見極めもないまま、また見極めるべき位置にいない者達があれこれと騒ぐのは、その部員たる生徒の将来のためにもよくないし、部長とされる先生の今後の教育者としての将来にかかわることになる。単純に「暴力」という表現に反応すべきでない。

 それと今回の問題だけでなく、高知の明徳義塾の問題でも感じるが、日本が「タレコミ」社会になるのではないかという危機感を感じる。このような「タレコミ」が効果があるとなれば、指導者も被指導者も常に萎縮した状態で野球なりに取り組まざるを得なくなる。また心無い人間に「タレコミ」による陰湿な「快感」を与えることになる。
 今回の場合、部員の親は当面問題にしないとしたらしいが、どういう経緯か、マスコミなる「ハイエナ」が知って、それを高野連に「タレコンだ」ということのようである。どのような経緯で「ハイエナ」が知ったかは定かではないが、「ハイエナ」はまさに「金」の匂いをかぎつけて、わざわざ「タレコミ」をおこなったのである。そして、その後の駒大苫小牧高校の当事者と高野連との間で混乱が起こることを見越して、その混乱振りを「報道」して「金」にする、まさに「マッチポンプ」的とも「インサイダー」的ともいえるような行為が公然とおこなわれたのである。

 こんな「ハイエナ」に、高校野球の伝統や社会の規範を破壊されてもよいのか。こんなヤカラは「報道の自由」を利用して、報道の公正さ破壊してもなんとも思わないマスコミ自身の破壊者でもある。マスコミ界もこのようなヤカラは、マスコミがいつも標榜する「報道の自由」の破壊者であるとして、マスコミの自浄的作用で処断すべきである。少なくともこんな情報に簡単に乗らない慎重さを持つべきである。

 さらに高野連に望みたいのは、暴力問題という視点だけでなく、このような「タレコミ」を許す環境を助長しないためにも賢明なる判断を望む。



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