No73.「ニート」対策という「甘やかせ」対策
2005.11.14 藤島公平
テレビを観ていると、「ニート対策」とか「フリーター対策」という言葉をよくみかけるようになった。
「ニート」と「フリーター」は本質的に違うとか、本質的には同一だとかの議論もあるようである。
私が考えるに、問題の本質は、雇用環境の悪化に起因する問題と、就労対象者の就労に対する意識の変化に起因する問題、に分けて考えるべきだと思った。
雇用環境は「失われた十年」といわれてきた過去もまた現在も確かに悪化していて、回復といってもわずかでしかない状況にある。失業率の数値的な悪化を「フリーター」という「半失業者」や「ニート」という「無業者」といわれる、いわゆる「失業者ではない層」によって救われていたことは間違いないようである。失業率が10%を超えてもおかしくない状況にあったのが、「フリーター」や「ニート」の存在のお陰で、4%台に抑えられていたと言っても過言ではない。
ところで、単に「フリーター」とはいっても、自ら「フリーター」という生き方を選択したのか、それともそうならざるを得なかった人たちなのかは、人いろいろだろう。ただ、両者とも生きるために、好き嫌いは別にして働かざるを得ないという意識は共通してもっているのであろう。ただ前者は、自らの選択であれば好きにさせればよいことで、社会問題と言うほどのことでもない。昔からそんな層はいたと認識している。しかし、後者は、雇用環境の問題であり、これこそ社会問題である。雇用環境を改善して、定職雇用へどう誘導するかであって、景気回復をどう日本全体に行き渡らせるかの極めて政治的な問題である。
ところが「ニート」といわれる層は、就学意思も就労意思もないということだから、「フリーター」とはやはり本質的には違うと思う。就学したいことや就労することに「やりたいことが見つからない」とか、就学しても就労してもその環境になじむ「自信がない」ということの理由で就学も就労もしないということのようである。そして「フリーター」と区分される点で重要なのは、何もしなくても食っていける環境にあるということである。
しかし、昔から人々は就学する場合も、就労する場合も「自分に本当にあった学校か」「自分にあった仕事か」常に悩みながら進んできたのではないか。ましてや「そこでの自信が、入る前からあって」やってきたことではなかったと思うのである。
就学するのに試験という難関に成功して目的の学校に行った者も、失敗して目的でない学校にいったものも、ほとんどの者にとっては、その学校でのことは入ってみないと分らないという世界であったのではないか。だから「不安と期待に胸ふくらませて」入学したし、「挫折という失意の中で」入学していったのである。
就職もまた似たようなものであったように思う。
ところが「ニート」と呼ばれる層は、「やりたいことが見つからない」とか、「自信がない」から就学も就労もしないし、できないということらしい。
その様な「ニート」に対して、カウンセラーと言われるアドバイザーが「自信を持とう」とか「やりたいことをじっくり探そう」と呼びかけているドキュメントをみたことがある。私はこれをみて、「そんな悠長なことでよいのか」、というより「そんな甘いことで本人のためになるのか」という疑問がわいてきた。
だったら「自信がない限り何もしないのか」「やりたいことが見つからない限り何もしないのか」と問いただしたくなる。
そもそも何かを実践するなかで「そのことに対する自信」や「やりたいこと、やりたくないこと」を見つけることがあるのであって、何もしなくて、「対話」の中から「何か」に気がつくことはあっても、目的のものを「理解」することはありえないと思う。
はっきりいって、自ら立ち向かう努力を放棄した中で、抽象的に「自信」だの「やりたいこと」「意欲」などを話し合っても、単に「甘える」環境を継続するだけで本質的解決にはならないと思う。そんな「甘えに」に対して手を差し伸べて「甘えを助長してなんになるか」と思ってしまう。
それより「自信がなくても」「何かに立ち向かうこと」に誘導すべきであり、「やりたいことを見つけたいのであれば」、「何かに立ち向わせる」べきである。そして、そもそも食っていくとはどういうことなのかを理解させるべきである。「人は理屈より先ずパンのために生きなければならないのである」。生きる術を放棄した者に、「自信」だの「意欲」だの語る資格がないと教えるべきである。
食っていくとは何か、生きていくとは何か、「ニート」に対してとやかく理屈を語るよりも、ホームレスには悪いが、その実態を見せてやればよい。働きたくても働き口がほとんどない事情、食いたくても十分に食えない事情、住みたくても温かい家にすめない事情。もし「ニート」に今食わせてくれている「保護者」がいなくなれば、たちまちその状況になる緊迫感、現実感を、反面教材としてみてもらえばよいと思う。
よく、「いじめ問題」で、「学校がいやなら行かなければよい」という「解決方法」をいう人がいるが、緊急避難的な意味では否定はしないが、つきつめればその子が今後も社会との関係を絶って、山の中で生活するコツを教えることまでのフォロー無くして、「学校がいやなら行かなければよい」と言ってもよいのかという疑問をもっている。いずれは社会との関係を持つことを前提するのであれば、当面の社会(学校とか)から逃避させることでは、本当に本人にとっての成長の助けにはならないと確信している。
同じく「ニート」にはやさしく語りかけることではなく、食うことのリアリティーを実体験させることである。
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